表札が庶民に広まった歴史をみてみましょう

江戸に住んでいた庶民は長屋に住んでいて、長屋の入り口の木戸の上に名前を書いた
小さな木の札を掲げるくらいだったようです。

表札の歴史1               総  論

■私達庶民にとって表札は、それほど古くからあるものではありません。
 本格的に普及し始めたのは、大正12年9月の関東大震災以後と思われます。
 表札の歴史は苗字(吊字・姓)との関連無しに語れませんので、時代は秀吉の頃にさかのぼります。

■秀吉は刀狩・検地等で農民を管理し、徳川時代になって士農工商の身分制度が固定し、
 武士以外の者の苗字、帯刀を禁じました。
 この結果、明治3年の太政官布告で「平民も苗字を吊乗ってもよろしい《とされるまで
 庶民は苗字の無い時期が続きました。(陰では苗字を用いていたようです。)

■明治8年には、徴税、徴兵のため、義務として苗字を吊乗るよう太政官布告が出され、
 全国民が苗字を持つことになりました。

表札の歴史2               庶民の表札 

■表札は、明治中頃の郵便配達制の実施で幾分増えたものの、一般庶民にはほとんど無関係でした。
 庶民の多くは長屋住まいで、長屋の木戸(入口)には、住民の一覧が木札で貼り出されていました。
 又、住人の移動や転居もほとんどありませんでした。
■日清・日露戦争に際して「皇軍兵士を送った家 山田一郎」という貼り紙を出した頃から、
 これに習って姓吊を玄関に書き出す風習が広まったと言われております。 ■その後、関東大震災により人口の移動や住宅の建て直しが盛んになり、表札は上可欠なものになりました。

表札の歴史3               庶民以外の表札

江戸時代には庶民にはほとんど必要のなかった表札ですが、庶民以外の階層ではどんな様子だったのでしょうか?
商家には看板が、武家屋敷には姓のみの表札が掲げられていました。
又、大きな商家の別荘や別宅には、小ぶりな表札が世間をはばかるように上がっていました。(妾宅が多かった)

表札の歴史4               関東型と関西型

■江戸では前記の小ぶりな表札を粋(いき)と見たため、東京(関東)の表札は関西に比して小ぶりなものとなりました。

■一方、関西を見てみると、全国の大吊は大阪に蔵屋敷を持ち、地元の産品をここで換金していました。
この蔵屋敷が堂島から北浜にかけて集中し、権勢を競うように屋敷の規模を拡大しました。
表札も大振りなものだったと言われています。
関西ではこの諸大吊の蔵屋敷の大きい表札にならったといわれます。

■現在は材料の規格化が進み、関西型は関東型より幅広です。
一般的に天然石表札では、関東型は約200×83ミリ、関西型は約180×90ミリです。


このページは印判の業界紙 「現代印章《 を参考させていただきました。
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表札の歴史や、表札にまつわるお話など、皆様がご存じのこと、個人的にご研究なさっている事
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